
クールな海外ウエディング
ひとつは特機製作所であり、もうひとつは製品研究課だ。
特機製作所は、カメラ以外のものを開発、製造、販売するという目的で新設された組織で、初期の一時期は開発、生産のほかに販売部門も置かれ、Cの事業部制のはしりともいえる組織形態がとられた。
ここには光機や電気関係の技術者たちが多く結集した。
後に述べる電卓事業はこの特機製作所から生まれている。
もうひとつは、技術部内に新設された製品研究課である。
ここから後にCの最大の事業の柱となる複写方式の新技術システムが誕生するが、この製品研究課の初代課長がY路敬三だった。
Y路は入社以来約一0年間、レンズ設計者として研究開発に没頭してきたが、彼自身にも大きな転機が訪れようとしていたのである。
そろそろ「Cはフィルムバーナーだ」一九六二年(昭和三七年) 一月に「第一次長期経営計画」が発表され、Cとして多角化に踏み出す経営方針が正式に打ち出されたことは前に述べた。
その一カ月後の六二年一一月、Y路は鈴川樽技術部長とともに渡米する。
多角化するといっても、具体的にどんな分野に進出したらいいのか。
それを探ることを含めての技術調査を目的としたアメリカ行きであった。
Y路はイーストマン・コダック社、IBM社のワトソン研究所、マサチューセッツ工科大学などを訪れるが、はじめてのアメリカということもあって、行く先々で新鮮な刺激を受ける。
このときの体験が、Y路にレンズ以外の分野に目を聞かせるきっかけになったといっていい。
とりわけ衝撃を受けたのは、コダックの研究所を訪れたときのことだった。
フィルムバーナーだ』と言うのです。
『どういう意味だ』と聞いたら『カメラメーカーはわれわれのつくったフィルムをどんどん燃やしてくれるバーナーだ。
だから感謝している』なるほど、うまいことを言うとそのときは感心したのですが、よくよく考えてみると、われわれとしてはつまらない話だ。
カメラをつくっている会社よりも、フィルムをつくっている会社のほうが儲けているわけですからね。
それでCを大きな会社にするにはカメラをつくっているだけじゃいけない、消耗品もやらなければ、と痛感したのです」(Y路)Y路は帰りの飛行機のなかで、鈴川技術部長にレンズ設計を離れて多角化の仕事をやらせてほしいと頼み込んだ。
鈴川にとってもY路のこの申し出は望むところだった。
鈴川はシンクロリーダーのとき、自ら進んで中心的な役割を演じたように、もともと事業多角化については積極推進論者である。
S川の影響もあって、技術部内ではカメラ以外のさまざまな製品分野がすでに検討されていたが、いずれは技術部内にも多角化のための新しいセクションができるはずだった。
もしそうなったときには、その責任者にY路を据えようと、鈴川はこのときに腹を決めたのである。
一方、Y路にしてみれば、レンズ設計を離れて新しい製品ジャンルに取り組みたいと思うようになったのは、会社の将来を考えてという理由からだけではなかった。
レンズ設計一筋に一O年。
この頃になると、Y路は個人的にレンズ設計者としての限界を感じはじめていた。
渡米から三カ月後の六二年五月、Y路は「ズームレンズの光学設計に関する研究」で工学博士の学位を受けるが、皮肉にも、それがかえってY路のレンズ設計者としての寿命を縮める結果となった。
幸いY路の「ほかの仕事をやりたい」という転出願望は、折からのCの多角化戦略とぴったりマッチして、Y路自身のステップアップにもつながっていくのだが、当時の心境をY路は次のように率直に告白している。
で分け合っていた。
そのうえ、カメラはだんだん普及度が上がっていって、いずれは飽和状態になることが予想された。
だからカメラだけをやっていては大きな会社にはなれない。
それに好不況や天候にも左右されやすいので、カメラ以外の分野も手がけていました。
でも、六二年に私がほかの仕事をやりたいと言い出したのは、正直なところ、自分自身がレンズの設計に限界を感じたからなのです。
ズームレンズの設計理論で工学博士の学位をもらったが、それが命取りになった。
というのは、その理論にとらわれるようになったのです。
理論的に考えれば考えるほど、これ以上の設計は難しいということがわかってしまって、私自身、設計のブレークスルーができなくなった。
それで私がレンズの設計にいたのではこれ以上の進歩は望めない、私のもっている資料やノウハウをすべて若い人に譲って新しい仕事に移ろう、若い人なら私を超えようと努力してCのレンズ技術を進歩させてくれる、と考えたわけです。
こうしてY路は、製品研究課の初代課長に就任する。
水面下でスタートした電卓開発製品研究課がスタートした噴、K来龍三郎はどうしていたか。
Y路の課長就任と同時期に社長室企画調査課の課長に就任したK来もまた、Y路とは違った角度から多角化を推進しようと動き回っていた。
具体的に言えば、K来の頭のなかにあったのは電卓による多角化だ。
まだK来が企画調査課の主任だった頃、それまでの電動型機械式計算機とは異なるアニタという電子計算機が発売されたというニュースがイギリスから伝わってきた。
調べてみると、それはデカトロンという一O進カウンターの放電電子管とその駆動回路が組み込まれたフルキ−式の計数型計算機であることがわかる。
また、アメリカにはトランジスタを使った計算機があることも確認された。
K来はこうした調査結果を踏まえて、課長に就任するやいなや、Cでも車上式の電子計算機ができないものかと、設立きれたばかりの目黒の特機製作所(後の目黒工場)に話を持ち込んだ。
特機製作所の技術者たちも電子計算機には強い関心をもっており、ふたつ返事でやってみようということになる。
当時の特機製作所の所長は山崎武夫で、交換レンズの名作「セレナ日ミリF1・8」の設計者であるI藤宏が副所長を務めていた。
その下にはシンクロリーダーの開発に携わった大勢のエレクトロニクス技術者がいたのである。
このように最初に電車に目をつけたのはK来たちの企画調査課ということになっているが、実際にはシンクロリーダーの開発に携わったエレクトロニクスの技術者たちも、かなり前から電車には関心をもっていたようだ。
それに、そもそもC社内には、新しい計算機の登場を待ち望むニ−ズがあった。
というのは、当時のレンズ設計には電動計算機が使われていたが、それは機械式のもので演算速度は遅く、故障も頻発し、おまけに音もうるさかった。
もっと演算速度が速く、故障も少なく、音の小きい計算機に置き換えることができればどんなに便利か。
そう考えるレンズ設計の技術者たちが大勢いたのだ。
当然、長くレンズ設計に携わっていた伊藤もそのあたりの事情はよく理解していたに違いない。
M手洗毅社長やM田武男専務らの首脳陣は、電卓による多角化にはいまひとつ消極的だった。
むしろ反対だったといったほうが正確だろう。
彼らは多角化の必要性は認めながらも、いざ話が具体的になると、言を左右して決断を下せないでいた。
やはり三年前のシンクロリーダーの失敗が、かなり後遺症となって残っていたのである。
こうしたやりにくいムードのなかで、K来や特機製作所の技術陣は、互いに連携を取りながら、電卓の開発を進めていくことになる。
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